2021-05-11 第204回国会 参議院 文教科学委員会 第11号
金沢大学は、各地域に設置されている国立大学と同様、戦前のナンバースクールでございました第四高等学校を中核として、当時の医学専門学校、高等師範学校、そして高等工業高校等が母体となって昭和二十四年に設置をされた、現在では収容定員約一万名、一万余名の中規模の総合大学でございます。戦後の復興からの立ち上がり、そして高度経済成長期を経て八学部二十五学科・課程を擁する大学へと発展してまいりました。
金沢大学は、各地域に設置されている国立大学と同様、戦前のナンバースクールでございました第四高等学校を中核として、当時の医学専門学校、高等師範学校、そして高等工業高校等が母体となって昭和二十四年に設置をされた、現在では収容定員約一万名、一万余名の中規模の総合大学でございます。戦後の復興からの立ち上がり、そして高度経済成長期を経て八学部二十五学科・課程を擁する大学へと発展してまいりました。
加えて、設立当初から、他の帝国大学が門戸を閉ざしていた、旧制高校以外の、例えば高等師範学校などの卒業生に門戸を開き、また、留学生も多く受け入れてまいったところでございます。 このように、門戸開放の理念というのは、今の言葉で言えばダイバーシティーでございまして、本学はダイバーシティーを理念に掲げ、一世紀以上にわたって実践してまいったということでございます。
でも、それだけではなくて、百五十年前の最先端だった紙の教科書、教材、黒板と白墨、ノートと鉛筆を最大限に生かした質の高い一斉授業を担ってきたのは、師範学校や地元の国立大学教育学部出身の均質な教師、そして、新卒一括採用、終身雇用、年功序列といった同一性の高い教員集団とそれを支えるシステムでございました。
かつては、師範学校の例にあるように、優秀でも貧しい家庭の子弟を救済しつつ、将来の人材を育成する教育分野に優秀な人材を集めることができました。現代においては、例えば、AIや宇宙、医療、保育、介護といった、今後社会として人材をふやしていく必要がある分野に優秀な人材が集まるように、めり張りをつけて無償化することとしてはどうでしょうか。 大臣、御所見をお聞かせください。
教育学というか、高等専門学校というような、師範学校というのがエコール・ノルマル・シューペリウールというようなものとか、国立土木学校なんというのもあるそうでございます。
神奈川県川崎市の水谷安子さん、百三歳は、富山県女子師範学校で出会った英語教師の影響でマルクス主義などを勉強し、卒業直前に特高に治安維持法違反容疑で逮捕され、一週間で釈放されたが、退学になった、その後も二度逮捕された。
つまり、教育勅語で言う親孝行、夫婦仲よくの思想的な背景というのは、またそれに基づく家族のありようというのは、現憲法の国民主権や基本的人権の尊重と正反対の内容であることは、この「勅語衍義」という解説書、当時師範学校や中学校で使われたこれで見ても正反対であることが明らかであると思います。
これは「勅語衍義」といって、教育勅語が出された後に、井上哲次郎という当時の文部省が依頼した学者、文学博士なんですけれども、その方を中心として編さんされた衍義、つまり中学校や師範学校でこれを基に教育勅語を解説し、授業の中で、あるいは研修で使われたというもので、教育勅語とはこういう解釈するんですよというような説明がされているものであります。 「夫婦相和シ」というところ。
そして、これが師範学校で当時の先生方に解説されて教えられて子供にそれが伝えられたということですので、紛れもなくここで言う教育勅語の中の「夫婦相和シ」というのはこういう意味だということを是非皆さんには御理解いただきたいと思います。 時間がもうなくなってまいりましたけれども、次に、元に戻りますが、質問主意書への答弁書ということで、これについて、答弁書では当時の森戸文部大臣の言葉を引用されております。
昔は、師範学校制度がありまして、ある程度の資金を支給されながら、奨学金みたいなものですね、師範になって、そして、学校の先生の資格を取って、何と花のお江戸のど真ん中の中央区の泰明小学校の教諭としてずっと勤めていたんですよ。そのときに我が母と出会いまして、そして私が生まれたわけでございますけれども、そうした意味では、父を育んだ福島の自然、風土、これは私どもも大事にしています。
うちの父は、会津でも、福島のチベットと言われる只見の出身で、そして師範学校を出て東京の小学校で教えているときに、母との間で淡い恋が生まれて東京に定着をしたという血が流れているんですね。 会津の歴史を振り返ってみると、悲惨ですよ。いわれのなき賊軍として、会津の人たちは塗炭の苦しみを強いられたんですね。最も勤王家であった松平容保公が逆賊とされた。あの歴史の非情さというのをつくづく感じます。
広島には、戦前、高等師範学校がありました。これは全国でも二つか三つしかない学校でして、広島というのは、教育というのは非常に大きな看板でもあったんです。あるいは、明治帝国憲法下で、広島と富山県、この二つの県だけは死刑囚が出なかった、凶悪犯罪がなかったんですよ。
ともすれば、いろいろな議論の中で、教員のためには大学院までとか、いろいろな議論が先行しておりますけれども、私は、そういう問題ではない、昔の師範学校の先生や、あるいは代用教員や代用教員出身の先生でも立派な先生はたくさんいました。
そして、みずからも台湾師範学校の出身でありますから、尊敬する政治家を屋良朝苗先生と言い、そして瀬長亀次郎先生を尊敬する、そういうふうなことを沖縄の政治のスタンスでは言っておりました。本土の自民党の政治家の中で、瀬長先生が亡くなっておうちにまで手を合わせに行ったのは山中先生しかいないんではないかと思いますね。 二つ目に、沖縄県民の視点を忘れるなということをよく言っていました。
戦前でいうと、陸軍士官学校とか師範学校とか、先生とか兵隊さんになる人は優遇するというのは当たり前のようにやっていたわけです。戦前がいいとは言いませんけれども、考え方としては、社会に必要とされている分野の学生を養成するためには、多少、温度差というか、優遇度合いが違ってもいいんじゃないかと思います。
日本の歴史を見ると、明治は国をつくっていくことから、帝国陸海軍もそういう風潮にあったけれども、師範学校ができて陸軍大学ができてくると、金時計もらったとかもらわぬとか、本当に現場の臨場感ある必要性から人事配置をしていくということから離れていくということは、一つ傾向としてやっぱりあるんだと。
それはやはり、戦前の師範学校というのはまさにプロの教員をつくってきた。今師範学校を再生しろということは申し上げませんが、例えば旧制中学に入れる能力がありますよ、しかし残念ながら学資が足りない、自分のうちはそれだけ豊かでない。そうすると何をするか。だったら給料をくれる師範学校に行きましょうかと。文系も理系も関係なく師範学校に行って、そこで五年間、まさにプロの教師として学んできた。
それでは、各種学校の問題について話をお聞きしたいと思いますが、各種学校は明治十二年の教育令に、学校を小、中、大、師範学校、専門学校、そのほか各種学校とすると規定しているところにその根拠があるわけでございまして、また昭和二十二年制定の学校教育法にもその定義がございます。
もう一つは、世の中がみんな大学を出てきているものですから、先生の威厳、威厳というのは、何も学校を出たから威厳があるわけではありませんが、しかし、かつて師範学校なんというのは、旧制中学と並び称されて優秀な人が入ってきましたよ。ですから、ほとんどの親は旧制中学とかそういうところに入らないわけですから、もうそれだけでも外形的にも信頼感があった。
実は、戦前、師範学校の時代においてすら師範学校出の教師が四九%を超えたことは一度もありませんでした。開放制の下で育てられた教師たちが五〇%以上を担っていたというのが現実でございました。そして、戦後、ある方向に、言わば全体主義的な形に国が一つの教育指針を作ってしまうよりも、多様な教師をつくる方が民主主義的ではないかということで開放制が導入されたということもまた歴史の事実であったろうと思います。
どうしてもすぐ目の前にある問題がせっぱ詰まっているから解決しなければならないということの、テクニカルな手法というのがどうしても次から次からやってくるということはありますが、そういう意味で、今度の教員免許制の問題も、基本的にはそういう求められる先生像ということの中で、たちまち身に付けてほしいことも含めてレベルアップをしたいということでどうあるべきかという議論をしておるわけですが、そのときに当然ながら、今、昔の師範学校時代
その人たちに三カ月教えて、師範学校をやりますと、スーパーマーケットでも教えられる人になります。 要するに、こうやって業種を超えてものづくり知識をどんどん広げていく、日本全体によい流れをつくっていく。これは人しかできません。これはロボットにはできません。ですから、ここのところにぜひお金を少しつけていただきたい。 つまり、大企業はまず師範学校をつくっていただきたい。
師範学校をやって中小企業にも伝達すると。先生のおっしゃるものづくり、設計立国とおっしゃいますが、それは要するに、お客さんが何を欲しているのか、何がお客さんにとって付加価値であるかということを情報として持って、それを物やサービスに落とし込んで、その物やサービスを今度は市場に売り出す、これ全体のことをおっしゃっているというふうに論文とかで拝見させてもらっているんです。